西暦2017年以降の他力本願のお話し
世界ではたった一人で生きているような人が秀でているがそうではない
実際、ほとんど人はたった一人でなんて息をする事すらできないのだから
ならばその他力本願を楽しもう そして笑おう(謳歌しよう)
他力本願とは
人はどんな時に愛や「ひとつ」を感じるだろうか?
他力本願とは
その「人」が、というか 自然に生きている「生きもの全て」が
すべてを知っていて
当たり前のようにひとつを創っている
というあらわれを表現した言葉です
ご存知の方もそうでない方も
きっとこの言葉が大好きになるお話をしてみようと思います
愛を考えると
人を思い出します
人こそ愛を表現する生き物だと言えるからです
男女の愛は無論ですが
大きな宇宙や心からの感謝の思いをエネルギーにすると
結局のところ この他力本願という言葉に燃焼されることでしょう
なぜならば人は一人では生きられない
というより
すべては繋がりたったひとつという世界を創っている
真理なんてそんなことぐらいしか感じられないようになっているのですね
真理だからこそ他力本願です
他力本願に行き着く世界その起源
他力本願の意味を思い出せばこうなっています
自分は何もやらなくても人に任せる優しい気持ちがあれば
きっと人生たのしめるさ・・・それもすばらしいようですが
それは後付けで、もっと大きくって面白いのがこの言葉の意味の発祥です
この言葉は仏教がつかいだし一般化した言葉ですが
宗教用語が世に広まる時は大切な目に見えない「大元」(ここでは仏)を抜きにして
広まることが多いようですね
ここでは「他力本願」 この言葉を宗教、科学、哲学といった分野を分けることなく
ひとつになった世界観の価値で考えてみたいと思います
まずこの言葉を2つに分けてみると分かりやすいです
他力とは~自分以外の(自分では想像できないような)
大きな力(愛のエネルギーや宇宙のパワー)を指す
本願とは~明日になれば消えてなくなるような願いではなく
ずっと続いている 誰もが願うような本当の願い・・・しかし
それが適い続けていることが分かりにくいほどに透き通った本来の願い
その透き通った本来の願いを曇らせてしまっているのが人の至らなさにあります
だから人の心で思えば所詮、「ひとつ」や「愛の世界」は
限界があらわれてしまいますが
他力を見出し、その願いに叶おうとする時
人こそが、「他力本願」という「本来の世界」に通ずることが認められ
本来の力のその愛に叶う世界を担当することができるのだという
お話にととのいます
ここで Google で 「他力本願とは」「成仏とは」を検索させて頂いたものをご紹介します
あまりにも分かりやしいのでこちらでも引用させて頂きました
たりきほんがん
【他力本願】
弥陀(みだ)の本願(=阿弥陀(あみだ)が
一切の人を救おうとして立てた願い)にたよって
成仏(じょうぶつ)すること。比喩的に、他人にたよって物事をしようとすること。
じょうぶつ
【成仏】
煩悩(ぼんのう)を解脱(げだつ)して無上の悟りをひらくこと。
転じて、死んで仏になること。また単に、死ぬこと。
※お断り: ここSPでは特定の宗教を推進いたしておりません。
「ひとつ」という大きな価値観の中で進めております。
他力本願の波動は続いている
お話が出たように人は他力本願を自然に生き
それを楽しむ世界にいつも生きています
その証拠は
軽く目を閉じると波動のような白い光が拡がってゆくのをみることができます
それは宇宙の始まりから今でも続いている愛の波動を分かるからです
その波動のようにわたしたちは他力によって愛を受け取り
その愛を表現し続けられる生命体として
すべての命と心をひとつとして
ひとつの世界が顕れるのを楽しめるようになっているのです
他力本願の誤用について 時代に「ふさわしい」ということ
少し大胆なお話になったかもしれません
ちょっと一休みも兼ねて
ウィキペディアを見てみると~
「他力本願」のうち、
「他力」とは他人の力をあてにすることではなく
阿弥陀如来の力を現す言葉であり、
「本願」とは人間の欲望を満たすような願いのことではなく
あらゆる人々を仏に成らしめようとする願いのことである
とございます
宗教用語としてとらえての意味はこのようでございます
しかし宗教を関係ない意味として
「ひと任せ」「他人依存」
「第三者に任せっきりにして自分の手を一切汚さずに物事を完遂する」
「(太陽の働きや雨や風や空気、そのほかの自然の働きなどによる)成り行き任せ」
などの意味で使用される。とあります
浄土真宗では、
この意味で「他力本願」の語を用いることを誤解としてございます
おっしゃるとおり、あまりにも意味が違うように遣われるのは
その言葉の深さを知って愛着を持ちつかってきた側は
「誤解」だとしたい気持ちは分からないでもありませんね
しかし言葉は時と共に変化するもので
「日進月歩」の記事でも触れましたが
言葉に意味を付けるのは進む時代の流れに生きる人であり
「人と言葉そして時代」この3つはひとつに繋がっていて
分けることはできないものだとまた思うものでございます
では、今この2017年になろうとしている時代は?
そう、ひとつへ ひとつへと在る(成る) そんな前代未聞の世界でございます
他力本願の類義語、推進はこちら!
長くなったついでに本来の意味での「他力本願」、この「類義語」として相応しいのが
検索をしてもみつからなかったので
こちらで1つ御提供させて頂こうと思います
きっとここまで読まれた方ならご納得頂けるのではと・・・
「人事を尽くして天命を待つ」
少し違いますが大きな意味で同じではないかと思うのです
目に見えない、一個人の力では図り知ることができない「願い」と
「ひとつになる様」 またはその姿勢を表現、示す言葉かと・・・
他力本願 まとめ
最後の最後にこの「他力本願」に思いを寄せて、まとめさせて頂きます
仏(ほとけ・愛でも、宇宙の源でも、そのエネルギーでも)
として命を感じ笑う幸せを「他力本願」といえるのではないでしょうか・・・
いかがでしでしょうか? 「他力本願」という四字熟語、好きになって頂けたでしょうか・・・
後は
信じて頂けたお人、もしくは「面白い!」と興味を持たれた方
「他力本願」という言葉を好きになった! という方
下記をclickくださいませ
お楽しみはこれからです!
頑張った結果自分の小ささを知るか、大いなる愛を知ってベストを尽くすか、入口の違いな気がします。愛は双方向だからどちらも真実で、ひとつとしてやれそうですね。
>頑張った結果自分の小ささを知るか、
>大いなる愛を知ってベストを尽くすか、入口の違いな気がします。
>愛は双方向だからどちらも真実で、ひとつとしてやれそうですね。
どちらも真実☆ なるほどそうでしょうね(*^_^*)
愛は双方向、というのも頷けます。
それだけ深くて大きいということなのでしょうね(*^^)v
天大さん、素晴らしいコメントありがとうございました☆
他力本願という阿弥陀様の力を表す言葉が
悟りへと通じる道であるならば
それはその時代に合った真理への扉だったのかもしれないなと
読んでいて思えてきました。
これからは、ダイレクトに個人が悟りへと繋がる道を
歩んで行けるようになりますね☆彡
>真理への扉だったのかもしれないなと
そうですね
時の時には宇宙の大元(愛や神といわれる源の存在)に
繋がってゆくことが顕れるものですね
>これからは、ダイレクトに個人が悟りへと繋がる道を
>歩んで行けるようになりますね☆彡
はい、そのための道具が「Way of life」ですね(*^_^*)
TORUさん、すばらしいコメントありがとうございます!
「他力本願」と「人事を尽くして天命を待つ」が繋がる様子も、面白く奥深く感じました☆
言葉は表面的ではなく、紐解いてよりひとつの視点からみられると、楽しさも広がるなと感じます。
たかが言葉
されど言葉といったところでしょうか
普段何気なく使う言葉でも
きっと誰かの心に響いてこうして続く未来まで
遣われていたのだと思うと
自然と愛やひとつを感じられ深さが見えてくるのでしょうね(^^)
弘美さん、素晴らしいコメントありがとうございました(*^_^*)☆
>いかがでしでしょうか? 「他力本願」という四字熟語、好きになって頂けたでしょうか・・・
はい☆とても好きになりました(^^)
せっかくあるこの命☆彡
大きな愛としていつも命を感じて笑う幸せを楽しんで
本願に繋がる世界をリアルに創ろうと改めて思いました(*^^*)
リアルに創ってゆくその素晴らしさこそ
ひとつという本来の体験なのだと思いますね☆
だからこうして生かされているのでしょう(^^)
美和子さん、素晴らしいコメントありがとうございます(*^_^*)
>他力本願こそ人の道
自力より他力。他力より仏の力。その「仏の力」を役立て世界を考えるのがこの時代に、人が選択出来る環境が整えられつつあると想います。
この時代、乾杯ですね☆
>「仏の力」を役立てて世界を考えることができる時代
言葉としてみるとまた素晴らしくスゴイ環境に
生かされているのだなとしみじみと感謝(シアワセ)です(*^_^*)