京都市に「龍安寺」という禅寺があります。
枯山水の石庭があまりに有名なので、ご存知の方も多いでしょう。
私は、高校2年生の秋、修学旅行で初めて龍安寺を訪れたのですが、その美しさに心から感動し、「このままずっとここにいたい。ここを離れたくない。」と思うほど大好きな場所になりました。
龍安寺で私が最も感動したもの。
それは蹲踞(つくばい)です。
石庭も素晴らしいのですが、この蹲踞との出会った時の感動は忘れられません。
ご覧になったことがある方はお分かりだと思いますが、円柱形の蹲踞の中心には水を溜める四角い穴があります。
その穴の四方を
「五」 「隹」 「矢」 「疋」
という漢字が囲んでいるのですが、パッと見ただけでは何を意味するか分かりません。
ところが、中心の四角い穴を「四角形」としてではなく「口」という字として捉えると・・・
なんということでしょう(某TV番組のナレーション風=笑)、
「吾唯足知」(ワレタダタルコトヲシル)
という四字熟語になるではありませんか。
私はまず、そのひねりの利いたデザインに感動しました。
そして、その言葉の意味を理解して感動は深まりました。
「吾唯足知」とは、
知足のものは、貧しといえども富めり、
不知足のものは、富めりといえども貧し
という釈迦(ブッダ)の臨終間際の説法をもとにしているそうで、
今のままで十分に満ち足りていると分かっている人は、たとえ貧しくても豊かである。
まだ足りないと思っている人は、たとえ裕福であっても貧しい。
(拙訳で恐縮です)
という意味になります。
「知足(ちそく)」や「足るを知る」はこれに由来します。
龍安寺の蹲踞に出会い「吾唯足知」の意味を知った時、我が身を振り返り、
「そうだな。食べたいものが食べられ、欲しい物が手に入り、今もこうして美しい場所に居られることは、なんて幸せなことなんだろう。いつも、ないものばかりを見て、追い求めていたな。」
と納得し、スーッと清らかで穏やかな気持ちになったのを覚えています。
自分のことはもちろんですが、世界を見ても、あらゆる不幸は「足りない」という不安から始まっていますよね。
「足るを知る」の意味を分かり、改めてその蹲踞を眺めてみると、そのデザインが表現する真理の深さが一層際立って感じられます。
「吾」「唯」「足」「知」、すべての漢字に共通するのが「口」。
「口」は蹲踞の中央に配置されています。
「口」というひとつをお互いにシェアしながら、それぞれ成り立っています。
「口」には水が並々と張られ、満ち満ちています。
水面は鏡のように空や庭園の木々を映し、季節や天気の移り変わりを教えてくれます。
たったひとつの蹲踞が宇宙そのものを表現していることに、心から感動しました。
この宇宙の全ては完璧である。
いかにしてそれを楽しむか。
それだけなんですね。
ブッダの時代から今日まで、時代を超えて分かり合える変わらない真実があるということにも嬉しくなります。
ところで、ここ数年
ミニマリスト
と呼ばれる人が増え、注目を集めています。
ミニマリスト(英語minimalist=最小限主義者)」とは、持ち物をできるだけ減らし、必要最小限の物だけで暮らす人を指します。
自分にとって本当に必要な物だけを持つことでかえって豊かに生きられるという考え方で、大量生産・大量消費の現代社会において、新しく生まれたライフスタイルである。(コトバンクより引用)
必要な物だけがあれば十分。
それ以上は求めない。
だから本当に必要な物、欲しい物だけを厳選して持つ。
そこに充足感が得られ、幸せを感じられるのですね。
ミニマリストの考え方である「多くを持たないことで豊かに生きられる」という点は、「足るを知る」という知足の心に通じるように思います。
ただ、ミニマリストも知足の心も、「求めること」や「持つこと」を 悪 としてしまうと、生活を楽しめなくなってしまいますね。
この宇宙は、あらゆるものが流れることでバランスが保たれ、成り立っています。
豊かな生活や幸せというのは、バランスのよい自然な流れに沿って生きることで適います。
龍安寺の蹲踞は、そのヒントを示してくれています。
四つの漢字に共通する、中心の「口」がそうです。
私たち全員が共有している「何か」を中心に据えることで、美しい自然のバランスが保たれる、ということを示しているのです。
その「何か」とは、一人ひとりの中心(こころ)です。
それが 愛 です。
中心(こころ)の奥深くへと入っていくことで、その真実が分かります。
わたしも、あの人も、中心(こころ)はすべて愛。
愛で繋がっている。
真実が分かると、愛しかない、新しい世界が浮かび上がってきます。
そのイメージは、向かうべき未来を示す地図です。
地図を手にした人は、目的地までの道(方法)さえ分かれば、あとは楽しく進むだけで良いようになっています。
自分一人であれこれ頑張らなくても、余計な物が自然に排除され、必要な物が巡ってくるようになりますので、大変省エネです。
道(方法)については、文末のリンク先で紹介されていますので、お時間のある時にごゆっくりお読みください。
ちなみに、ミニマリストを目指していない人でも、自然と人生そのものが楽しいミニマリストになってしまいますのでご注意を(笑)。
リンク→ SP世界をひとつに https://hitotsu3.jp/
「吾唯足知」は、「口」が共通しているのですね♪
その共通している「口」には、写真にあるように水が並々と張られているのが、何ともあたたかなものを感じられます。
私達も繋がっていて、共に満ちているものを感じていきたいなと思いました(^^)
* 弘美さん *
まったく相容れないような相手でも、こころは繋がっていて、そこはいつも愛で満ち溢れていると分かると、肩の力が抜けて笑い合えますよね(^^)
こころの奥にあるから奥儀。戦わなくていい愛という奥儀は、やっぱり最強なんだなと改めて思います(笑)
>ただ、ミニマリストも知足の心も、「求めること」や「持つこと」を 悪 としてしまうと、生活を楽しめなくなってしまいますね。
既に世間は悟りに入って行ってるような歴史の流れが起こり始めていますね。素晴らしい! しかし、これが、人間の陥りやすい習性ですね。ここからの切り返しを気付くかどうかは人間の更なる智慧処を知る。愛を知って足るを知るですね(笑)
* みのるさん *
「愛を知って足るを知る」
そうなんです、この記事ではこういうことを言いたかったんですが、言えずに終わっていました(^^ゞ 素晴らしいまとめをありがとうございます!
こころの奥で繋がっている愛を知れば、みのるさんのような達人になりますね(^^)v
すでに十分持っているというのは、今、幸せであるということなんでしょうね。足が、人みたいでかわいいですね。
* 天大さん *
「すでに十分持っているというのは、今、幸せであるということ」
そのとおりですね(^^)v
余談ですが、口という字は顔にある口ではなく、祝詞を収める箱としての口(サイ)という捉え方があるようです。祝詞(願い)を現実にするために動く(生きる)から、人は「足」を持っているのかもしれないなと思いました♪ 「ために」足を動かす人って、たしかに可愛いなあ、と思えます☆
>必要な物だけがあれば十分。
>それ以上は求めない。
>だから本当に必要な物、欲しい物だけを厳選して持つ。
既に十分に在ると分かれば
必要なところに必要な愛を
分かち合えるようになるだろうなと思いました(*”▽”)
* TORUさん *
コメントありがとうございます。
「既に十分に在ると分かれば 必要なところに必要な愛を 分かち合えるようになる」
本当にそのとおりだと思います☆彡
その流れの大元に委ねる選択をすれば、もっと楽にその体験ができますね♪
>自分一人であれこれ頑張らなくても、余計な物が自然に排除され、
>必要な物が巡ってくるようになりますので、大変省エネです。
ほんと共感しながら読みました☆彡
愛の循環は自然な恵みがいい感じに調和して巡るから
蹲踞(つくばい)のデザインみたいに時代を超えて
深いところで感動する動きですよね(*^^*)
* 美和子さん *
共感いただきありがとうございます☆
美和子さんはこの「いい感じ」の流れがとても良く分かっていらっしゃるから、とても安心します(^^)/
「巡り」というのは漢方でも何でも言われることですが、体に限られた理論でなく、宇宙全体と体・心という在り方で捉えると、時代を超えて分かち合えますね♪
聖弥さんが衝撃的に感動した内容から起こる未来へのせかい
それがだんだん顕れるのが楽しいですね。
>自分一人であれこれ頑張らなくても、
>余計な物が自然に排除され、必要な物が巡ってくるようになりますので、
>大変省エネです。
こういった形となる真理は
最後に必要であることに気づくようになっているのでしょうね(^^)
* あやこさん *
> こういった形となる真理は
> 最後に必要であることに気づくようになっているのでしょうね(^^)
たしかにそうですね。
それが今という時なんだなとしみじみ思います(^^)v
蹲踞、お洒落かつ洗練された深いデザインですね(*^-^*)
真実は美しさを放ち、時を越えて感動させてくれるんだなぁ~と改めて感じました。
* ミラクルさん *
愛(ひとつ)を新しい形に再構築するのって、デザインの楽しさであり、醍醐味ですよね(^^)
> 真実は美しさを放ち、時を越えて感動させてくれる
ほんと、そういう美しさに心打たれて、いいな~.。o○ と嬉しくなると同時に、前へと進む勇気になりますね☆