気配りの極意!本当に喜ばれる愛の気配り


気配りとは、みんなが喜びあえるように、考えたり動いたりする行為です。
みんなが喜び合える 愛を基準にした気配り を実践できると、誰でも、どんなシチュエーションでも、最高の気配りができるようになります。

本当に喜ばれる気配りとは?

秋の訪れを告げる綿毛
「気配り」は誰にでもできるもの。本来の目的を思い出して、喜びを基準にして動けばふんわり整います。

気配りができる人、できない人、という振り分けをされることがあります。

人の気持ちや場の空気を察する能力や察知するアンテナの感度に個人差はあっても、「喜びあえるようにするにはどうすればよいだろうか」、「そのために自分には何ができるだろうか」と考え、動こうとする人はみな、気配りができる人だと思います。

それが 気配りの原点 だからです。

気配りの善し悪しについては人それぞれの価値観で異なり、評価もバラバラです。

しかし、みんなに共通する喜びを基準にして物事を考え、動くと、時や場(空間)を超えて喜ばれる未来が創られるようになります。

これが、本当に喜ばれる気配りです。

本当に喜ばれる気配りは、やる気さえあれば誰にでもできます。そして、とてもあなたらしい自然な流れの中でやれるようになっています。

みんなが喜び合える世界を創る、あなたらしい気配りを、今から始めてみませんか(*^_^*)

 

本来の気配り

気配りは「気を配る」と書きますね。

似た意味を持つ言葉として、「気遣い」、「配慮」、「心配り」、「心遣い」等があります。

これらの言葉には「気」や「心」のいずれかが使われています。

「気」も「心」も目に見えないものですが、私たちには心が備わっており、気持ちという形で、様々なことを感じることができます。

目に見えないものでも、感じることで信じられるようになっているのですね。

気配りは「喜ばせたい」という気持ちから始まります。

相手、或いは全体が喜ぶ姿をみて自分も喜べる。

その未来のために、気づかれなくても(なるべく気づかれないように)、見返りも求めずに動く。

大きな意味では「奉仕」という言葉に通じるものがありますね。

気配りは、自分以外の人間がいるからこそ生まれる行為です。

自分一人で生きているわけではない。

自分一人で何もかもやれるわけではない。

それが分かると、みんなが互いに気持ちよく過ごしたり、平和で穏やかに、発展的に物事を進めたりすること、つまり、「喜び合える」ことが大切になります。

どうすればみんなが喜び合えるか。

それを考え、動くことが本来の気配りです。

手を繋いであなたとともに道をゆく
決して一人では生きられない世界。いつも変わらない、安心できるたったひとつと繋がって、一歩一歩、進んで行くこの道。

気配りができる人、できない人」の評価は当てにならない

気配りができる人、できない人、と分けて話されることがあります。

よくあるケースに、「○○さんは気配りができて素晴らしい。」や「□□さんは気が利かないねえ。」等の「他人による評価」があります。

これについては、個々の価値観、好き嫌いがそのまま反映される評価であり、まったく当てになりません。

例えば、同じ「気配りができる人」と評される場合であっても、好意的な見方と批判的な見方があります。

<好意的な見方>

特に指示を出さなくても雰囲気や気持ちを汲み取って、その先に望まれるであろうことをやったり、できるだけ平和に望まれる結果へと導かれるよう発言したりできる人。また、それを目立たないように、なるべく自然に行おうとする謙虚な人。

<批判的な見方>

特に指示したわけでもないのに、良かれと思って勝手に動き、それによって物事がうまく進んだと自己満足に浸る人。自分の行為をあえて申告しないことを美徳としながら、内心「私がやったのよ」と思っている優越感をもっている。ナチュラルメークに見せるために塗りたくっているのと同じで不自然。

同じ「気配りができる」でも、相反する見方があります。

「気配りができる」「気配りができない」と評価する側は、自分の価値観による「基準」に照らし合わせ、「○○は気配りができる」「□□は気配りができない」と決めています。

しかし、本来の気配りとは

自分を含めたみんなが喜び合える内容を考え、行動すること

です。

あなたに「気配りができるようになって」とか「もっと気を利かせて」などと求めてくる相手は、あなたが喜べる内容も考えてくれているでしょうか?

自分を喜ばせる「気の利かせ方」、或いは自分が喜ばせたい相手のための「気配り」だけをあなたに望み、あなた自身が喜べる内容であるかどうかまで考えが及んでいないのではないでしょうか。

人の評価が当てにならない別の例を挙げます。

ある時、あなたの気配りで喜んでくれた方がいて、「気配り上手だね!ありがとう。」と褒められ感謝されました。

後日、人は違うけれども似たようなことが起こり、以前自分を褒めてくれた方にしたのと全く同じことをすると、「こういうの、余計なお世話っていうのよ。有難迷惑よ。」と言われてしまいました。

あなたは、その方から「こういう時にはこうしてほしい」という希望を聞き、「なるほど、そう受け取り感じる方もいるのか」と納得します。

次にその方にお会いして同じようなシチュエーションになった時、その希望どおりに動くと、「何もわかってないわね、あなた。もっと気を遣ってよ。」と怒られてしまいました。

一言で言えばまったく「理不尽」です。

しかし、見方を変えれば、人間の基準とはそもそも理不尽なのです。

人によって基準は違い、時と場合によっても変わるのです。

結局、人の評価はあてにできません。

あてにできない=頼れない=信用できない。

つまり、無価値なのです。

人の評価は無価値ですから、上司だろうが先輩だろうが、相手が人間であれば何を言われても気にすることはありません。

本当に喜ばれる気配りのために意識するべきことはたったひとつ、

自分を含むみんなが喜べる基準に沿っているかどうか

それだけです。

 

そもそも、気配りって必要?

日本社会では、俗にいう「気配りができる人」が重宝される傾向にありますが、気配りって本当に必要?という考えもあると思います。

結論から言ってしまえば、自然でない気配りは不要です。

例えば、形式的であったり、その場しのぎのために無理して取り繕ったりするような気の配り方です。

気配りは、誰かに指示されてやるものではなく、自然に湧いてくる気持ち(思い)が自然に行動へと移されたものです。

形式的なもの、不自然なものになってしまった時点で、気配りではなくなります。

そんな気配りはもちろん、相手から喜ばれる内容にもなりません。

 

本当に喜ばれる気配りをするために

気配りや気遣いには、「喜び合うため」という明確な目的があります。

気配りの本来の目的である「自分を含むみんなが喜べる基準」とはなんでしょう。

本当に喜ばれる気配りとはどういうことなのでしょうか。

それは、全ての人が

何もかも繋がっているんだ

と実感できるようにすることです。

血の繋がらない他人であっても、大元を辿ればたったひとつから始まっていて、互いに影響し合い、支え合い、離れることなく存在しているということ。

そんな世界、愛の中に生きていること。

私たち一人一人に輝かしい個性が備わっていること。

個性は異なるけれども、同じ宇宙、このひとつの宇宙に生きていること。

安心してその個性を発揮できる世界にすること。

それは、一人一人がのびのびと、自然に、感じたことを素直に表現できる世界。

その世界を創ることが、本当に喜ばれる気配りの内容です。

本当に喜ばれる気配りは、どうしたら実践できるのでしょう。

様々な価値観を持った、様々な人が生きているこの世界において、全ての時と場合にフィットできて、誰もが喜べる「気配り」なんてできない!と思ってしまいませんか。

大丈夫、たった一つの基準をもち、それを軸に考え、動くだけで喜び合える世界を創れます。

 

気配りの極意は愛から

全ての方が納得できる気配りの基準。

それは「愛」です。

気持ちという愛を慮り、相手への気持ちである愛=気を遣って、心を遣って、喜びへと繋げようとするのが気配りです。

そのときに基準とするのが、決して変わらることのない不変の「愛」です。

あなたがあなたとしてここに存在している、その根源の愛です。

その根源の愛を基準にして考えれば、本当に喜ばれる気配りがやれるようになります。

一過性で消えてしまう儚い気配りではなく、永遠に形として残る愛の気配りができる人になります。

そんな愛からの気配りを、こちらから始めてみませんか?

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聖弥 について

歌う喜びを、ひとつの音楽を、より多くの方と体験したいという願いとともに、聖楽教室(せいがくミュージック)を主宰しております♪

8 thoughts on “気配りの極意!本当に喜ばれる愛の気配り

  1. 良かれと思ってする気配りも、人によっては喜ばれたり、
    逆に遣りすぎと感じられたり、ほんと様々なんでしょうね。
    人や状況だけを見ていては見えてこないことも、
    愛(源)をそのむかう方向を意識していけると、
    自分も周りも安心でき喜べる動きができるかもしれないですね♪

    1. ☺・☻・☺・☻・☺・☻・ 弘美さん ・☺・☻・☺・☻・☺・☻

      自分ができることを精いっぱいやる。
      それが第一だと思ってきたけれど、
      それよりも前に
      愛(源)として向かう方向(未来)を意識することが
      上手くやるコツだと学んできました☆彡
      (今、橘いずみの「永遠のパズル」が脳内BGMとして流れています=笑)

      愛すべき未来のために、
      気配りという愛を源に還して(介して)流していきたいです(^^)

  2. 聖弥さん。こんにちは。関東は、お出掛け日和ですね☆

    自分一人で生きているわけではない。自分一人で何もかもやれるわけではない。本当にそうですよね。
    どうすれば、みんなが1つになって楽しく出来るだろうか?と悩んだ時がありました。色んな意見。価値観。性格。経験。みんなバラバラで、派閥が出来ちゃったり(笑)それらを全部なくして楽しく笑顔で物事を進めていく力が欲しいって思った時がありました。気配りが余計なお世話ととられたり、感謝されたりほんと色々ありますよね。人間関係って難しいな~って思ったりもします。

    みんなが神に祈る。その先にある源に気付けば、みんなひとつの愛に守られ愛されてると気付けば、すべてが解決しそうですよね。愛になりたいです。

    昨日は、鎌倉の長谷寺に散歩に行って来ました。鎌倉大仏を見て娘は案外大したことないじゃん(>.<)。とさめた感想を言っていたけど。長谷寺はとっても綺麗なところでした。海外からの観光客や、音楽を演奏している方や、紅葉を楽しんでいる人達。そんな光景を源の神様に感謝し共に喜べる事が嬉しかったです。日本から世界の扉をひらこう。わかるような気がしました。

    何もかも繋がっているんだよ。みんなに伝わる気配りが出来たらいいなと思いました。

    失敗したと思ったら、またやり直せばいい。思いっきり、楽しまなきゃですね(*^^*)。→自分に言い聞かせてます(笑)。

    1. ☺・☻・☺・☻・☺・☻・ みさこさん ・☺・☻・☺・☻・☺・☻

      ほんと、今日もまた気持ちいい晴れ空で、三連休の締めくくりとして憎いですね☆彡
      長谷寺、寒い時期にしか行ったことがないのですが、それでも趣深い佇まい(空間)に癒されたのを覚えています。
      娘さんの大仏への冷めたコメント、大人として見た私もほぼ同じ感想だったので思わず笑ってしまいました(笑) 結果よりも、「今」が全てなんでしょうか。

      > みんなが神に祈る。その先にある源に気付けば、みんなひとつの愛に守られ愛されてると気付けば、すべてが解決しそうですよね。愛になりたいです。

      この世の不思議のひとつは、愛なのに「愛になりたい」という人がいることです(笑)そして、初めから愛されているのに分からなくなっていること。それさえ分かれば全て解決しますね。そのために、大元の愛に直に繋がる必要がありますね。

      日本から世界の扉が開かれるのは、きっともうすぐでしょう(^○^)

      未来=明るい今、そう思って私も日々、新しさを選び、楽しんでいこうと思います☆彡

  3. 繋がっているという気配りが
    面白い(なるほど)なと思いました☆彡

    >愛を基準にして考え、動けるようになる方法
    この方法を利用して体得すると
    気配りする事が楽しめ
    繋がりを感じられる★
    愛ってすごっく大きいんだなと
    また思いました(^^)

    1. ☺・☻・☺・☻・☺・☻・ あやこさん ・☺・☻・☺・☻・☺・☻

      気配りをされたい側が一番求めているのは「安心」だと思うのです。

      みんな源を分からず、繋がり方が分からず、不安の中でたった一人で物事を進めているからこそ、「大丈夫、繋がっているよ」と感じたいのかなあ、と(^^)

      愛の大きさ、本当の愛による自然な気配りが、じわじわと世界に広がっていってほしいです☆彡

  4. 気配りとは愛を配ることだったんだなと改めて考えさせられました。気の根源(ひとつ)への繋がりも感じました。
    基準が曖昧な中、愛が基準になると一気にシンプルでわかりやすくなりますね(*^^)v

  5. ☺・☻・☺・☻・☺ ミラクルさん ☺・☻・☺・☻・☺

    「愛を配る」ってすてきな表現ですね(^○^)

    一人一人がありのままで、自然に、本来の愛を生きていれば、世界は温かな笑顔で満ち、それを受け取る人は一層安心して愛を表現できるようになる。

    そんな自然な姿が本当に喜ばれる気配りなのだと思います☆彡

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